コロナ禍の炉開き

2020年の春夏は、密集してはならない、密接に過ごしてはならないということで、密の極みである茶の湯には厳しい期間となりました。今でもそれは続いており、マスクを着けたままでのお稽古となっています。もちろん、茶会、特に大寄せの茶会はほとんどすべてが中止となり、着物を着て出かける機会もまったくありませんでした。

夏に社中でのお稽古が再開し、マスク茶の湯の方法を探りはじめました。名残りの秋になり、久しぶりに感じる季節の移ろいに、心が洗われました。今年の秋はなぜか長く感じられました。

そして11月となり、紅葉のはじまりとともに、炉の季節がやってきました。久しぶりに着物を着て袴を着けました。着かたを忘れてるのではなかろうかと不安もありましたが、無事着られました。安心。

さて、コロナ禍の茶の湯。

茶のクライマックスポイントである濃茶が大問題です。濃茶というのは、席入りした客全員で飲み回すものだからです。物騒な戦国時代、同じ茶碗で同じ茶を飲むということに大きな意味があったのでしょう。茶に毒を混ぜて、ということもありえますから。そういうことに思いを馳せながら楽しむものなのですが、これができません。

その飲み回しができないところ、どうするかというと、これには前例がありました。各服とする、つまり、各々に一椀ずつさし上げるのです。裏千家十三代、圓能斎宗匠が明治時代末に考え出されたそうです。しかし、これはこれで時間が必要です。少人数の茶会であればそれも趣きでしょうが、大寄せですと、日が暮れてしまいそうです。

大寄せばかりが茶の湯ではありません。むしろ小さな茶室でひっそり行う茶の湯のほうが、今の時期にはあっているのかもしれないですね。小間の茶の湯を見なおす良い機会だと思って稽古しよう。

今宵はあんまり阿呆言うてやんけど寝よ。