お茶のお稽古中、置き合わせた茶碗と棗の位置が良くないことに気づき、少し動かして良いところへ調整する、ということをついしてしまいます。しかし、本来はこんな動作は不要です。やはり、ピタッとあるべき位置に一回で納まれば、それに越したことはありません。それでも、ついつい、直してしまうのです。
茶道では、もっとも合理的でもっとも美しい位置に道具を置くわけですが、それはある程度のルールがあるようでいて、最終的には道具を置く人の美的感覚に委ねられます。そして、一回で決める。
このやり直しの利かなさも茶道の味わいである、とぼくは感じています。一回で決めるためには、それは一瞬ですが、相当に心して、覚悟を決めて、物をそこへ置く必要があります。気に入らなければちょっとあとでやり直せばいい、というものではない、ということです。これは、書道にも似ています。紙に墨を落として書いている以上、消したりできない世界です。しかも、思った通りの線が引けなくても、その偶然を瞬時に受け入れて、それに応じた次の線へと心を移していかねばなりません。
このアンドゥなき世界、無常とも言える世界を、ぼくは茶道や書道に感じています。
そこがおもしろい。
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思えば、音楽でも同じですね。
このギターの一音を、どのタイミングでどの音量で音階で弾くのか、このドラムの一音を、このベースの一音を、この歌声を・・。音楽というより、ライブパフォーマンスと言ったほうが、今の世の中にはしっくりくるように思います。タイミングも音階もパソコンで編集できますから。
ただ、編集されたとしても、その一音に対する覚悟があるかないか、それはできあがったものに現れるとぼくは信じています。returnを押すときの覚悟でもいいです。
そういうものが何かあるのではないかなぁ、と信じているのです。