インターネット時代の国家

killnobody

 

インターネットが一般的になってからの世界

眼前の便利な機器がインターネットにつながっていて、遠くにいる人と顔を見合わせて会話ができたり、ウェブサイトから情報を得られたり、メールなどによって通信を行うことができ、日々、快適で便利です。
年代的に、ぼくはインターネットの一般普及期を経験しています。ピーギャラギャラーという間違ってFAXが電話にかかってきたときに受話器で聞こえてくるような音がモデムから発せられ、部屋のMacが世界(^^インターネット)につながった日を鮮明に覚えています。また、docomoがiモードというものを始めるというので、iモード初号機を購入し、メールアドレスを取得したものの、誰にもメールを送る用事がなかったことも覚えています。メールアドレスを持っている友達はいたけれども、世の中、そんなに急いていなかったのだと思います。夜に一度メールチェックするかなぁ、という感じでした。皆が手元にインターネットにつながった機器を持つようになって、そのあたりのスピード感が変わってきました。

 

離れていても人と人がつながるということが何を意味するのか

インターネット前夜のパソコン通信時代にも感じていたことですが、同じ趣味の人同士の交流が簡単になりました。インターネットになってそれが一気に広がったように思います。そしてそれは自然に、同じ趣味、同じ嗜好ということだけではなく、同じ考え、同じ思想というところまで進みます。
個と個がつながり始めると、国家という概念が揺らぎます。しかし、国家は人の流出を防ぐため、危機感を煽ったり、絆をアピールすることで個人を国家へつなぎ止めようとします。しかし、それは時間稼ぎにしかならないのです。世界はもっと加速しています。

 

溶けていく国家

イスラム国の台頭を見ていると、とても早く国家が溶けていく状況がやってきているのだ、と感じます。イスラム国は国家として認められていない、と言われています。でも、名乗っています。国家ってなんなの?という気持ちになります。さらに、10万人ほどのイスラム国参加者がいるとも言われていて、外国人が戦闘に参加、欧米からも1万人ほどが参加しているそうです。

 

これらの人を集めるにもインターネットを通じて広報活動を行っているとのことですので、まさにインターネット時代の新しい国家です。

 

現在は、領地争いのための戦闘を繰り広げていますが、本当に恐ろしいのは、いつでもどこでも仕事できますのノマド的な人たちが世界中に点在しつつも同じ思想でまとまっている、という状態です。信仰のためなら他人を殺しても良いのだ、という思想を持った人たちが世界中に点在するのはとても怖いことです。

 

どのような世界にコミットするかを決める

ぼくたち個人個人が、どのような社会を目指すために、どのような個人であるか、を考えなおす時期が来ています。どのような自分でありたいか、に社会、つまり他者との関わりを排除することはできません。必ず、他者に認めてもらわなくてはならないからです。逆に考えれば、どのような社会に住むのか、はある程度、自分で選択できるのだとぼくは考えています。

 

大変むつかしい問題ですが、ひとつだけ、このことは決めています。
ぼくは(自他問わず)人を殺さない世界にコミットします。