やっぱり目の前のことが大切だと思う

おばちゃんとこの焼飯

 

どのくらいそこに住めば、住んだことがある、と言えるのだろう、と考えています。たとえば、ぼくは1ヶ月間ロンドンに滞在したことがありますが、それは住んだことがある、とは言わないのでしょう。住民票を移して、引っ越しもしなければ住んだことにならないのか、家を借りなければ住んだことにならないのか。「住む」ということの定義が問題になるのかもしれません。大辞林によると、住むとは「所を定めて、そこで生活する」とあります。定めるってどの程度か、ということに今度はなるのでしょうか。ホテルじゃあ定めたって言えないね、いや、定めてるよねとかそういう風になるのでしょうか。

 

しかし、1日でも(それがホテルでも)所を定めて生活したのなら、そこに住んだことになるのか、と思えば、いろいろなところに住んだと言えて、そのほうが楽しくなってきます。

 

「ロンドンって人がやさしくて、いろいろ合理的で、カルチャーも先端を行っている感じで、とてもいい街ですよね」と、ぼくが言うと、「住んだこともないのに、1ヶ月位でそんなこと分かるわけないがな」と言われそうな気がします。実際にそんなことを言われたわけではないのですが、なんとなくそう言われそうで、簡単に言わない、と自分で決めているような気がします。

 

これは何でもそうで、ある種の音楽やバンドを好きだ嫌いだ、と言うときも、それらのごく一部しか知らないということをわきまえないといけないなぁ、と自戒するのです。何曲聴いたら、そのバンドを聴いた、と言えるのか、というようなことです。たまたま観たライブやそのときの格好や曲が良くないと思えただけで、もっと他に良いものがいっぱいあるかも知れない。いや、きっとあるでしょう。しかしこんなことを言い出せば、何だってそうで、全部知っているわけではないことばっかりやないか、とどうしようもなくなります。

 

人生の中での他人との接点なんて、そんなごく一部とごく一部の出会いなんだと考えると、ますます接点の多い、身近な人との時間を大切にしなくてはいけない、と思います。と、インターネットという大海に向けて、誰に読まれるとも分からない駄文を書き連ねて、公開ボタンをポチッとするのは不思議な気分です。