何かが上手であるというのは、成功の確率が高いということだと思います。成功確率100%ということはありえないことが多いし、仮にあったとしても、おもしろみがなくなります。絶対できることに挑戦しても何も甲斐がないでしょう。大体技を磨くなんてことをしている場合は、100%にいかに近づけるか、ということを目指しているわけです。
お茶を点てるのは、本当に難しいです。その時の気温、お湯の沸いている様子から想像されるお湯の温度、お茶碗の形や素材によるお湯の冷め方や茶筅を振ったときのお茶の点ち方、すくい入れたお茶の量、以上のようなことを考えに入れた適切なお湯の量など、目指すお茶を決める要素がその一椀に対して沢山あります。
そこに加えて、喫する客が、どのようなお菓子を召し上がられたか、いま、どのような気分であろうか、なども方向性を決める要素となります。しかし、点ったお茶は客のものになり、点てた本人である亭主は味わうことがありません。
それでも、点った感じを見て、自分が目指した方向性に近いかどうかの確認は一応できます。が、結果として客に美味しいと言ってもらえなければ、それはまったく上手く行ったということではないわけです。それでも、そこには感覚のやり取りがあるわけで、亭主が目指したお茶に対して客が理解を示すかどうか、ということも問われるのでしょう。そこがしっかり折り合えば、お互いに幸せであり、その場が成功した、ということにもなります。亭主と客で上手を目指しているような感覚でしょうか。
茶の湯をたとえにお話しましたが、音楽においてもまったく同じことが言えます。音楽家があるものを目指し、ある程度そこに親しい物ができたとして、それを聴く人に響くか響かないかということはやはりあるわけです。響き合えばそれも幸せというものです。
誰かのために何かを作っているようでも、そこには前提として作り手本人が満足をしなければならないということが必ずあります。自己が先ず満足してから、相手へ渡すのですから。
自己満足って、とても大切なことだと思います!
阿呆言うてやんと寝よ。