おもてなしする人とおもてなしされる人、主客でつくるおもてなし

招きにゃんまげ

 

寒い中、お茶事に参ります。お茶事とは、正式なお茶会のことです。

待合で白湯をいただいて、ひと息ついて、

つくばいで順番に手を清めて、

茶席に入って、床や点前座を拝見、

炭のお点前が始まって、炭のくべられる様子や香合を拝見します。

亭主が道具をさげて、再び現れると、懐石料理が運ばれてきます。

 

お茶事、お茶会という名称だからといって、始まってすぐにお茶を飲むわけではありません

最初は、上のような流れで、お茶やお菓子をいただく前に、懐石料理を先にいただくのですが、そこに到達するまでもなかなかに時間がかかります。

 

このときにいただく料理の美味しいこと。

お茶室という空間は余分なモノが排除されています。昔は刀掛けに刀を置いて茶室に入ったそうですが、そのように身分とか日常の雑事だとかを外において席につきましょう、というような感覚があるのです。なので、目の前のことにだけ集中できます。また、床や道具やお料理に、季節に沿った亭主の思いが込められていますので、客はそのことに思いを馳せ、読み取ります。

 

そういう風にしてじっくりと時間をかけてからいただく、最初の汁椀は、本当に美味しいです。

同じ汁物を茶席ではなく、散らかった部屋でスマホを眺めながらぐいっと飲んだところで、まったく美味しいはずはありません。美味しさとは、味そのものではなく、環境と心とが大きく関係しているということが分かります。

 

亭主は、口にしてもらう前の段階で、環境を整え、心(意)を伝えて、お客さまの状態を作る。そして、そこにぴったりとくる温度、味、見た目の料理を運び出す。お茶事では、このような細やかな演出が最後まで連なります。懐石のあと、お菓子、濃茶、薄茶が続いて、最後に亭主が見送り、客同士で挨拶をして終了となるまで、続いていきます。茶室という区切られた空間での数時間は、とても集中して過ぎていきます。

 

おもてなし、というのは、決して「ほなあんさん、わいをもてなしてみてくれ!」というものではない、とぼくは思います。もてなされる側にも受ける態勢が必要なのです。面倒くさいことを言っているようにも思いますが、「おもてなし」とは、もてなす側ともてなされる側の両者で作り上げていくものです。茶道にはおもてなしの心が確かに存在します。おもてなしを、主客どちら側からも学ぶことができるところがまた茶道のおもしろいところでもあります。

 

ぼく自身、まだもてなされることすらままなりません(^^;

しっかり勉強していきたいと思います。