絶対的な幸せ、相対的な幸せ。

10代後半から20代前半。ぼくは幸せということに執着していました。

それは単なる幸せではなく、「絶対的な幸せ」というものでした。

なんだかわかりませんが、比べて幸せ、というものが許せなかったのだと思われます。オレは絶対的な幸せというものを追求しているのだ、と他人にも言っていましたので、大変めんどくさい奴だったでしょう。すみません。

1999年7の月、ノストラダムスの大予言が外れ、30歳を過ぎても生きながらえることになったのは誤算でした。まぁ、薄々そうではないかなぁ、と思っていましたけど。それでも一応、世界が終わるかもしれないということで子供の頃からの人生設計は1999年でストップしていました。大予言が外れたあたりから、なぜか絶対的な幸せというものはなさそうだ、と感じ始めました。幸せなんてものは、すべてにおいて相対的なものである、と。

ところで、いま、ぼくは大変幸せです。

のんびりキーボードを叩いて、こんな阿呆な文章を書くことができて、本当に幸せです。こんな物は買えなかったなぁ、いまは自由に買えるなぁ、というものも沢山あります。大体過去の幸せ度合いと比較して、いまの幸せ度合いが勝っていると、はぁ幸せということになるのではないでしょうか。

ということは、過去における自分に降り掛かった不幸がひどければひどいほど、いま幸せを感じやすい、ということになりそうです。あんなに貧乏しとったのにいまは大金持ちやで、というストーリーが散見されます。どん底であるほど、後の幸せが、比較において大きく感じられるのは、まぁそうだろうね、と理解できます。

年齢を重ねると、過去データも増えていきます。誰しも、うわぁ、どん底や・・もうあかん、最悪や・・という体験がいくつか思い浮かぶのではないでしょうか。小学生のときは大きいのを漏らしてしまったことなどがどん底の経験でしたが、大人になって考えてみると、そんなことは大したことのない笑い話に変化します。大人になるほど、さらなるどん底の経験が増えていくからでしょうか。

では、そのどん底の経験を思い出し、現在の状況と比較すれば必ず、うわぁ、幸せや、ということになるはず。歳を取れば取るほど、幸せを感じやすくなるのです。人間というものは、うまいことできている。

ときに、犬は絶対的な幸せを感じているように見えます。

阿呆言うてやんと寝よ。