先日の坐禅セッションの寺子屋コーナーで、サラリーマンの方が小池龍之介さんに質問されました。
部下の失敗につい激昂してしまい、それを土日に後悔することがしばしば、とのことでした。小池住職の本などを読み、理屈では分かっているのだけど、時間が経てば落ち着いた感覚も薄れて、つい怒鳴ってしまうのだそうです。なんという良い上司でしょう。怒鳴られるのは困りますが、あなたの下で働きたい、ぼくは。
それはともかく。
その気持ち大変分かります。ぼくは横でうんうん大きくうなづきました。
坐禅をしていると、心が落ち着き、優しい気持ちにもなります。本を読めば、怒りの煩悩について、理屈が理解できます。しかし、「つい」怒ってしまったり、イライラしてしまったり、というのは、ぼく自身もよく感じていることだからです。
小池龍之介さんの回答は、もっと呼吸と身体に慣れ親しんでみてください、というものでした。そうなんです。頭で、理屈で分かったところで、何も解決しません。読んで悟れるならば、坐禅修行は必要ありませんから。
ありがちなやりとりとして、なぜ坐るのか、坐禅に意味はあるのか、という質問に、意味はない、と答えるのはいかにも禅問答っぽいですが、そんなことでは納得できません。そんなふうに答えない小池住職に親しみを持ちます。
ぼくは、頭で理解したことを、体感、体得するために、坐禅修行があるのだと考えています。そして、その先にあるのは人格の完成。人として生まれてきたのだから、そういうことを目指して成長したいと思っています。
うーん、もっと坐ろう。