お茶の先生が亡くなった。そこに先生がいない「だけ」の稽古場。

亡くなってからふた月ほど経って再開した稽古場。
たしかにいない。先生はもういない。そのことは理解しているけど、茶室や道具からは先生の気配が感じられて、ただ、いつも座っておられた場所に先生がいない「だけ」。その他はすべて何も変わらない。

 

ぼくの先生は晩年、娘さんに外向きの活動や家事のことをほとんど任せて、お茶のお稽古に専念されているように見えました。亡くなったあとは、その娘さんが継ぎ、お稽場は続いています。先生が亡くなって、弟子が途方に暮れるというケースはたまに聞きます。そうはならないように先生はいつ自分がいなくなっても皆(自身の家族や弟子たち)が困らないよう考えておられたのだと思います。

 

先生は常々、3年後から5年後くらいのことを考えておられました。そして、言ったことを忘れません。90歳を過ぎておられましたが、こちらが忘れてしまっていたようなことも、しっかりと実現するよう準備してくださってました。先生適当なことを言うわ、と感じたようなことでも、あとになって、ああそういうことだったのか、とひざを打つ場面も多くありました。

 

亡くなった直後の稽古場では、毎回どうしても涙が滲んでしまいましたが、2年経ったあたりから、ようやく慣れてきました。季節が二巡したからでしょうか。哀しみを忘れるために季節の移り変わりは大変役に立つものだと知りました。そしていま、3年経ちました。この新体制も、先生の設計図通りなんだろうな、と思えて笑ってしまうくらいです。

 

8年前、ぼくが大阪から神奈川へ引越しをする際、先生に言いました。「先生、ぼく神奈川に引越しをするんです」と。先生はまさに鳩が豆鉄砲をくらったような(実際には見たことはありませんが、このときのためにこの言葉があるかのようです)顔をされて、しばらく黙っておられました。次に先生が発せられた言葉は、「あんた、来るわな?」でした。関東の知り合いの先生でも紹介してもらえるのかな、とか何となく思っていたので、今度はぼくが鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていたのではないでしょうか。「あ、はい!」と返事をして、神奈川から大阪のお稽古場に通う生活が始まりました。

 

いまでも、大抵のことは先生の考えていたとおりになっているように感じます。

 

先生がいない「だけ」なのです。