茶道のお稽古で自然と養われて行く眼力

Chabana

 

茶道を始めて、最初のうちはさっぱりわからない茶の湯における「美」が、なんとなく身に付いて来たように思います。もちろん、初心の者でありますので、たかが知れているレベルでのお話である、と添えておきます。しかし、非常にゆっくりではありますが、何が美しいのか、ということへの意識が少し芽生えています。

 

ぼくはお花のことが苦手です。さっぱり名前を覚えられないし、生けるセンスもまったくありません。そんなぼくでも道端で見かけた花を見て「このように咲ききってしまったお花は茶室の床には合わないね」なんてことを言うようになりました。これは、お稽古に行くたびに床に飾られているお花を見て、その味わいが少しずつ積み重ねられ、眼が養われていったからだと思います。

 

飾られたお花を見て、こんなもん美しゅうないわい、と思われる方ももちろんいらっしゃるでしょう。

 

たしかに。これは先生の美です。あらゆる見方もあって当然です。美の感覚というものは、自分の通っているお稽古場の先生の美を学んでいるわけですから、その先生が美しいと思われるものが自然と弟子に伝わっていくのではないかな、とぼくは考えています。おそらく先生は裏千家のお家元から学んできたものを受け継いでおられるでしょうから、元々はお家元の美なのでしょう。さらには、千利休から代々続く美の伝承なわけですから、利休の考えた美が現代にまで伝わって、いまぼくが学んでいるのだとも言えます。先生の美と申しましたが、それは、利休から続く、裏千家全体の美、と言えるものでもあります。

 

美しさを追究するなんてとても人間らしい行為です。そして日本でもそのことを日本ならではの感性で研ぎ澄まして来たのです。白洲次郎が日本にはないと言っていた、英語で言うところの「Principle」って、実は「美」と翻訳できるのではないかな、とぼくは思います。だから、日本にも本当はPrincipleがあるのです。日本の美を思い出せ、と白洲次郎は主張していたのではないでしょうか。