茶の湯には道具を使います。お茶碗、茶杓、茶入れ、棗はもちろん、棚や軸や花器や菓子器、水指や香合などなど、様々あります。これらはあくまでも道具です。使われてこそ、のものです。素材は、焼き物、つまり土であったり、竹、布、紙、といろいろですが、いずれも朽ちていくものが多いです。ピカピカのままずっと持ちそうな物にはあまり出会いません。
壊れるかもしれない儚(はかな)さの上に、茶の湯は成り立っているようです。物をていねいに扱う所作は、儚き美への敬意でもあるのでしょう。
道具の価値など、さして分からないぼくでも先生のお茶会をお手伝いさせてもらうことがあります。金額を聞いて驚き、扱いにはとても気を使います。できる限り道具の金額は聞きたくないのですが、分からないからこそ金額で判断するしかないのかも、とも思います。情けない話ですが、価値が分からないからこその金額なんです。本来は、価値があっての金額なはずですが、分からないということはこれを逆にしてしまいます。茶の湯における道具の価値を勉強するということはここを切り崩さないといけないということです。
ある日、お稽古場で生徒の一人が水屋(茶室のバックヤードみたいなところ)で「先生、お茶碗を割ってしまいました!」と言いました。先生は茶室におられて、どのお茶碗か確認もせずに「かまへんよ」と即答されました。ぼくはそのときに知りました、道具を使うということへの茶人の心構えを。どんな高価な物であれ使わなければ意味がない、しかし使うということはそれは壊れてしまう可能性がある、ということです。もちろん、壊してしまうようなことはないに越したことはないのですが、壊れてしまうことも覚悟のうえで、道具を出しているのだな、と感じました。おそらくどんなに高価な道具であっても、先生は「かまへんよ」とおっしゃるでしょう。その覚悟が見えました。
レッド・ホット・チリ・ペッパーズに在籍中、ジョン・フルシアンテがグレッチのホワイトファルコンをツアーに持って行ってました。ツアーに付いていたギターテクニシャンが、「あんな貴重なギターをツアーに持っていくなんてクレイジーだ」みたいなことを言っているのを読んだことがあります。ギターも、高価であれ希少であれ、道具であり、使われてこそです。ジョンだってそう考えていたに違いありません。
茶道の先生とジョン・フルシアンテ。何か共通点でもあるかなぁと、いろいろ思い巡らせながら床に就いたら、ジョンがお稽古場に来て正座に苦労しているという夢を見ました。はは。