意味を見失うことの怖さ

人生に意味はあるのか、ということを誰でも一度は考えるものでしょう。そこに意味を求めるがために落ち込んだり、悩んだり、喜んだりするのではないでしょうか。闘病生活も治療に意味を見いだせなくなったときに途方に暮れるといいます。

犬を観察していると、そこらじゅうを嗅ぎ回り、何かしらの目的を持っているようにも見受けられます。しかし、意味があるのか、と思い悩む感じはなさそうです。意味なんて考えている暇があったら、もっと匂いを嗅ぎたい!という感じに見えます。そんなことすら考えていないでしょう。羨ましい限りです。

人間には、この「意味」ということがとても重要なようです。

意味を感じられない作業をずっと行うことは苦痛以外の何ものでもありませんし、もしかしたら気が狂ってしまうかもしれません。

「意味」を見出すために、行動に理由を付けます。妻のため、親のため、子供のため、犬のため、亀のため。自分のためにやれば良いものをわざわざ自分以外のため、となんらかの意味を見出すことに躍起となっているようです。

僧侶のように修行をして、空や無の境地にいたり、自我をなくしてしまえば、意味の呪縛から開放されるのでしょうか。それでよいのか?

自分が自分であると定義されるためには、関係性が必要です。つまり、自分だけでは、自分が誰であるのか、の定義もできなくなりますので、自分の存在が危うくなるのです。妻がいるから自分は夫。子供がいるから自分は親。生徒がいるから自分は先生。自分を定義するために関係性が必要となり、結果、誰かのために何かを行うことが、自分の存在証明として機能しているからこそ、皆が誰かのために何かを行っているのかもしれません。そのように考えると「あいつらのためにオレはがんばる」というような決意表明は、「あいつらのためにがんばるオレ」の存在証明のためと換言できます。

とすれば、自我をなくすことができれば、たしかに意味の呪縛からは開放されるかもしれませんね。

しかし、「意味」がなくなれば、何が行動を起こさせるのか。

犬はただ嗅ぎたいのか。人はなぜ歌うのか。生きる目的を失うとはなにか!

ぼくはただ明日も美味しいものを食べたい。意味なんて考えている暇があったら。

阿呆言うてやんと寝よ。