田舎に帰ってきて、90歳を過ぎたおばあちゃんたちに出会うと、普通のありがたみを痛いほど感じます。
おばあちゃんは言います。今朝も目が開いた、良かった、と。そのような気持ちで目覚めることなんてなかなかありません。自分も歳を重ねるとそのような一日のありがたみを感じられるようになるのでしょうか。
おばあちゃんは足が悪くなってきました。すると、朝、トーストを作ったり、コーヒーを飲んだりすることも「必死よ」と言ってました。必死、です。移動そのものが本当に大変なので、それがほんの隣の部屋への移動だろうが、必死なのです。飲み終わったコーヒーカップを台所へ持って行こうとしたら割ってしまうし…というようなことを言ってました。
トイレも大変そうでした。おまるを使ったりもするそうですが、それを片付けるのも自分です。なので、できる限りは使わずにトイレで用を足したいと言ってました。そりゃそうです。
自分の足で立つこと、移動することが困難になると、いかに普通であることが幸せな状態なのかが分かります。残念ながらこういう気持ちは相対的なもので、不自由な状態を経験したり想像したりすることでようやく思うに至ります。
それでも良いので、目覚めるありがたみ、自分で食べられるよろこび、普通に排泄できるしあわせを、たまには意識して感じてみたいと思っています。