嫌な予感はしていました。
これまでにも何度も嫌な予感を感じていました。しかし、そのたびにその嫌な感じを覆してくれていました。
可愛がっていた猫、りゅうちゃんが亡くなりました。2014年11月14日だったそうです。
その一週間前、2014年の11月7日にぼくはりゅうちゃんに会いました。それが最後となりました。帰り際に、もっと撫でて欲しそうにしていたのを覚えています。どうしてあのときにもっと撫でてやらなかったのか、と残念でなりません。
そんなことを考えながら歩いていたら悲しくて悲しくて、目の前がぼんやりとしてくるものですから、駅のトイレに駆け込んで、思う存分泣いて、気を取り直して電車に乗り込みました。
りゅうちゃんはぼくの飼い猫ではありません。お茶のお稽古に行く途中にあるお店で飼われていた猫です。お店の前でよく日向ぼっこをしていました。撫でてあげるようになって何年も経ちますので、次第にニャーと挨拶をしてくれるようにもなりました。晩年は声なき叫びでしたが。
ここ2年ほど、りゅうちゃんは痩せたり弱ったりしているように見えました。しかし、そんな状態でも言葉で死を恐れるようなことはなく、最期の時まで生ききって眠ったのでしょう。当たり前といえば当たり前です。猫との別れに「死」を感じ、人間であるぼくはただただ一方的に「死」について考えています。
生ききることは理想です。できればそうありたい。一方でただ生きて、ただ死ぬことのむつかしさをひしひしと感じています。
一匹の猫の死が、きっとぼくをやさしい人間にしてくれます。
引き返してもっと撫でてあげたかった。
ごめんね。ありがとうね。