なぜ坐るのか。頭で分かっても分からない感覚を得るために坐禅修行がある。

 

zen cat

 

無我とはなにか

無我の境地という言葉があります。これは、まるで自我がなくなる境地のように考えられていますが、本来の意味はそうではありません。ぼく自身、その解釈を知ったことで、仏教や坐禅に対する考えが大きく変わりました。

 

無我とは「我=アートマン=実体」がない状態である、という解釈です。これによって、自分なんていないんだ、という解釈より、実体としての自分なんてないんだよ、というふうに考えられるようになります。

 

仏教的な考え方って、無我、自分がない、すべてはむなしい・・・、みたいなことに陥りがちですが、本当はそうではないのです。「観察をして判断をしたりしている主体」はいます。これがいないと、生きていけません。ただ、それはあくまでも「それ」であって、「本当の自分」だとか「真我」というものではない、ということです。アートマン(実体、真我)ではないのです。

 

実感は続かない

しかしながら、大体は「それ」つまり「観察をして判断をしたりしている主体」を自分自身だと思い込んで、それに振り回されます。理屈を頭でわかったところで、意識の底の方では理解しきれていないのです。おそらくそこは理解という範囲ではなく、体現しなければならない部分です。それが禅の言葉にある「不立文字(ふりゅうもんじ)」ということだと思います。

 

そして、それを体現するために、坐禅やその他の禅修行があるのです。
意識の底の方、という考え方は、仏教にも昔からしっかりあります。たとえば阿頼耶識(あらやしき、アーラヤしき)という深層意識が人間にはあるのだ、というふうに考えられました。

 

やはり、その深いところを修業によって、日々鍛えていくということが必要なのです。理解できたからOKではなくて、修行を続ける意味がそこにあります。なぜ坐るのか、というところの答えはこれなんだと思います。