東京オリンピックをめぐって、適任ではない、ということが取り沙汰され、辞任や解任が続きました。「平和の祭典」に参加するのに適さない人物が沢山指摘されました。社会的にはなにか失敗をしても再出発できるような寛容さというものがあるほうが良いと思いますが、オリンピックという「平和の祭典」にはそれも許されないようです。そんなに大変な行事だったのか、と今になって感じます。
こういう発言は今は許されない、ということは理解できます。しかし、過去のすべてを許されない、としてしまっては、何も挑戦できない世の中になってしまいそうです。すでにそうなっているのでしょう。尖ったら削られ、目立ったら打たれ、全部が均質均等になるしかない社会と言えます。みんなちがってみんないい、などの綺麗事も聞こえてきますが、ダイバーシティを掲げてやっていることは、だいたい真逆です。正しいことのひとつしか許されていない。LGBTなどと言って新しくカテゴライズしている行為は正しいのでしょうか。バリアフリーという名のバリアがまた新しく作られただけにも見えます。
普通におかしくても良いではないか。
1995年頃、「お前は好きだが、お前のことは嫌いだ!」と言われたことがあります。そのときは何を言っているのか理解できませんでしたが、オリンピックの騒動でようやく分かってきたような気がしています。
阿呆言うてやんと寝よ。