「進化」という言葉の解釈を間違えていた。ぼくたちは意思を持って変わっていくのか。

ぼくは「進化」という言葉を使うとき、そこに進化する人や生物の「意思」があるかのように使ってきました。案外そういう人は多いのではないか、と推察します。「キリンは高いところにある食べ物を食べるために進化しました」という言い方は間違っていません。しかし、「キリンは高いところにある食べ物を食べるために首を長くした」というわけではない、ということです。そこに意思はないのです。たまたま首が長くなってしまった生き物が、たまたまその時期、その環境を生き延びるのに適していただけで、意図して首を長くしたのではないのです。キツツキだって、樹木の奥にいる昆虫を食べるためにくちばしを細長くしたのではなく、たまたま細長くなったのが生き延びたんですね。こういう適者生存の考えこそが生物の「進化」ということなのです。

生物学の専門家である妻に、上のような話をしたところ、「当たり前。ダーウィンの進化論も適者生存が大前提でdeath!」と即座に返されました。なに?みんな知ってたのか?

さっそく、ダーウィンの有名な著書、「種の起源」をKindleで読みはじめてみました。すると!なんと!さっそく!まえがきに「適者生存」「自然淘汰」というキーワードが並んでいました。神様が全部作ったんちゃうで、進化してきたんやで、と簡単に表現してまいりましたが、「種の起源」のまえがきも読まずに「進化」や「進化論」を軽々しく口にしていました。すみません。

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ところで先般、少し狭い道を歩いておりましたら、ヘッドホンして歩きスマホをしている女性が前方より歩いてきました。もちろん彼女の前を歩く、ぼくの存在などは認識しております。やはりというかなんというか、お互いの距離が目前に到達したときに、わぁ!びっくりした~、とヒャクゼロでこちらが悪いかのような反応を、その女性はされました。ぐぬぬぬぬ。

かの二宮金次郎さんは、仕事の移動中にも歩きながら本を読んで偉いね、と言われました。いま、車も行き交う道端でリュックを背負って歩きスマホなどしていると、なんしとんじゃぼけまえむいてあるかんかい、と罵声でも浴びせかけられるかもしれません。それで済めばともかく現代では、二宮金次郎さんは車にひかれてあの世ゆきの可能性がきわめて高いです。

歩きスマホやながらスマホは、たしかに人類の進化の過程であることは間違いないでしょうね。何びとが適者たるか。

阿呆言うてやんと寝よ。