というものを求めて、十代の終わり頃から詩を書いたり歌を歌ったりしてきました。
絶対的な幸せとは、相対的でない幸せのことです。青い心を持った人間には相対的な幸せが許せなかったようです。つまり、何かと比して幸せである、ということは「本当の」幸せではないのではないか、と考えていたわけです。しかし、そういうものは見つかりませんでした。歌や詩の中にはそれに近いものもあったかもしれませんが、それはきっと勘違いだと思います。
ぼくはノストラダムスの大予言に振り回されていた世代なので、自分は30歳の手前で死ぬものだと信じていました。信じていました、は言い過ぎました。世界がそこで終わるものだとして備えておこうと考えていました。うすうすそんな気はしていましたが、1999年に世界は終わらず、2000年問題と言われていたことも大きな問題には至らず、新しい世紀を迎えました。
30歳になると、絶対的な幸せへの拘りは薄らぎました。そして段々と、幸せは相対的なものである、という考え方に落ち着いていきました。諦めたのでしょうか、それともこれが大人になるということだったのでしょうか(遅い)。
幸せが比較において成立するものだとしても、そこには種類があります。自分との比較か他者との比較かということで大きな差があります。過去との比較か未来との比較か、によっても。資本主義というルールで競争しなくては幸せはつかめないという、このような社会では、どうしても他者との比較をしがちです。そんなことに何の疑念も抱かずに受験などで頑張ってきました。でも、勝利というものは瞬間の結果でしかなく、幸せを感じることも一瞬です。なので、これだけを求めていれば、その一瞬以外は不幸であるということになります。
感染症の流行により日常が奪われ、日常が幸せであったことに気づく、というのは、過去との比較でしかないけれど、気づいただけマシだと思う。失われて気づく日常の幸せ。家に帰ったら親がご飯を作って待っていてくれた日常の幸せ。
とにかく、こんなはずではないと自分を憂いたり(未来の自分との比較)、昔は良かったよなぁと感傷的になったりする(過去の自分との比較)ことは止したい。もちろん、他者との比較全般には意味がない。意味がない、というのは幸せになることにとって、意味がないということです。
幸せは「現在のここ」にしかない、ということやな。
阿呆言うてやんと寝よ。