坐禅と瞑想の違いは「する」か「しない」か

ジョン・フルシアンテのインタビューで知ったヴィパッサナー瞑想というもの。これをやってからだと、フレーズのコピーがすごくうまくいく!というようなそんなことを言っていました。

 

ぼくは中学生のころから、ヨガや瞑想などに興味があり、本などの情報を元に真似ごとをしてきました。なので、レッド・ホット・チリ・ペッパーズの面々(フリーとジョン)がヨガをやっている映像には敏感に反応していました。そしてそのインタビューでは、ヨガより瞑想してるんだ、なんて言っているので、大変気になるではないですか。

 

インタビュー記事を読んでからは、「ヴィパッサナー瞑想」について調べて、本を買ったり、瞑想会に参加してみたりして、取り組んでみました。ヴィパッサナー瞑想は原始仏教の考えが根底にあり、ブッダが悟りをひらいた瞑想方法こそがこれである、といいます。坐る瞑想だけでなく、歩いたり、立ったり、色々なスタイルがありますが、とにかく「いま、起きていること」に集中します。ですので、日常生活にも取り入れることができるのです。確かにうまくいくと、今のことしか考えなくなるので集中力が増すでしょう。

 

瞑想というと「心をキレイにしたい」とか「癒やされたい」とか「気持ちをリセットしたい」などの目的で行われることも多いです。また、経済的に成功した人なんかが瞑想を日常に取り入れている、という話もよく聞きます。なので、自己実現のためにもよく使われているのではないでしょうか。スティーブ・ジョブズにも瞑想したり、禅に傾倒したり、という話がありましたね。

 

瞑想のほかに、「坐禅」というものがあって、ぼんやりと同じことを違う言葉で言っているくらいに考えていました。ブッダの瞑想法が坐禅だ、と言っているような人もいます。でも、やっぱりなにか違うんじゃないかな、と感じていました。

 

そんな疑問を一気に解消してくれた本がありました。

ドイツ人住職のネルケ無方という人が書いた「ただ坐る」という本です。もう、おもしろくて何度も読み返しています。

 

「坐禅をして何になりますか?」

実は、答えは極めて簡単、「何にもならない」です。

 

こんなにシンプルに、長くモヤモヤしていた疑問を解消してくれるなんて、と驚きました。

 

何にもならないことこそ、坐禅なのです。「何になるか」という問いからの解放、すなわち仏教でいう解脱が鍵なのです。

 

とも。「坐そのものになることが坐禅である」「自分が自分する」なんて表現も使っていました。瞑想は何かをするために行っており、坐禅は何にもならないもの、というのがその違いです。「ただ坐る」んですね。道元のいう只管打坐(しかんたざ)をとてもわかりやすく解説してくれています。