先日、小池龍之介さんの主催する坐禅セッションに参加した折、終わってからもじもじしていましたら、住職のほうから「何かご質問でしょうか」とこちらに寄ってきてくださいました。もぐもぐ食べておられるのをジーっと観ていて、申し訳なかったなぁ、と思いつつも、ずっと考えていた善悪について尋ねる良い機会を得ました。
仏教ではよく善悪についてのお話があるけれど、自分にとっての善は他人にとっての悪かもしれず、善いことをしましょうと言われても、それって誰かにとっての悪ではないのか、という考えが現れて、納得ができなくなります、というようなことを相談しました。ぼくとしては、善悪すら捨てるのが仏教の目指しているところではないのか、という考えがあったからです。
住職のお答えを要約すると、善悪という判断をしていることすら観察しましょう、ということでした。こう書いてしまうと何のことかよく分からないかもしれませんが、そのとき、ぼくは割と腑に落ちました。
小池龍之介さんが指導されているのは、坐禅セッションという名称ですが、坐禅というよりも原始仏教系のヴィパッサナー瞑想に近いと思います。それは、ネルケ無方さんが説いている坐禅とは違うものです。自我ではない、自我を観察する視点を持つことこそ、小池龍之介さんの指導されているものなのだと、ぼくは思います。
お話をしている中で、観察できた、もしくは集中状態(もしくは三昧状態)だったと認識した時点でそれは自我の行為である、ということが認識として共有できました。つまりそれは、こうやって言葉にすると消えていってしまうような状態のことを指すのです。それでも言葉で何とか説明しなくてはならないとき、便宜上善悪とか言うわけで、だからそこにこだわると進めなくなってしまいます。
小池龍之介さんの書籍の言い方を借りれば、「ありのまま」を観ているときが善である、ということです。でもやはりこうやって言葉にした時点で違和感が生じます。
まだまだ考えられそうです。(^^;