稲村ヶ崎の月読寺にて、小池龍之介さんの主催する坐禅セッションにふたたび参加してきました。午前は初心者向け、午後は既習者向け、ということで、2回目の参加ながらも午後の既習者向けコースに参りました。少し早めに行き、窓の外から小池龍之介さんがもぐもぐ食べておられるのを微笑ましく観察したのち、席入りとなりました。
小池さんは、停滞気味だった坐禅の調子が良くなってきたそうで、本日のお話では、坐禅を通じて自分自身を観察することが、普段の生活においてでも、そのまま活きるようになったというようなことをおっしゃっていました。無我、つまりこの世に我というものはなく、宇宙と一体、もしくは宇宙そのものである、という感覚を得ておられるのだと理解しました。そうなることができれば随分と生きることも楽になるであろうと思われます。
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前回、善悪について質問しました。ある程度腑に落ちたのですが、やはり、自分が誰かと共有している「善」や「正しさ」なんて、どこかの誰かには「悪」や「間違い」ではないのか、という考えから抜け出せず、そのことをどう捉えて行けばよいのか、ということを尋ねました。ほぼ、同じ質問です。
やはり、「ありのままにみる」ということが仏教における「正見」である、というお答えでした。が、今回はさらにうかがいました。そこまでは理解しました。しかし、その「どこかの誰かには悪」かもしれない部分をどう理解すれば良いのか、ということを尋ねました。すると、小池龍之介さんはこうおっしゃいました。
「それにお答えすることもできそうですが、それよりもあなたがどうしてそこまでその100%の正しさに対してこだわるのかということが気になります」
真剣白刃取りをされた気分でした。なるほど、たしかに考えすぎて「こだわって」いました。まさにこれこそが「執着(しゅうじゃく)」でもあります。しかし、「こだわって」いたことに気づいただけで、かなり気持ちは楽になって帰路につきました。
一旦、善悪については、こだわらないことにします。善悪だけでなく、いろいろなものにこだわらないことこそ、禅や仏教の目指すところでもあります。そして、捨てること。
小池龍之介さんは、こうもおっしゃいました。
「正しさとは正しさを捨てること」
今日も大変勉強になりました。
また、稲村ヶ崎の月読寺の坐禅セッションに寄せていただきたいと思います。